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阿蘇野・直山まちづくり協議会
阿蘇野三大パワースポット
Asono Naoyama, Oita Japan
1 男池
名水百選
数多くの伝説の地
毎日約2万トンの湧水量
大分川の源流
2 名水の滝
名水百選
マイナスイオン
滝の下流に魚が生息
(アブラメ、エノハ、
ウナギ等)
3 囲碁神社
囲碁・将棋発祥地
囲碁神社の歴史
聖徳太子の時代、西暦583年~587年頃、神功皇后の三韓行に際して和弭津藤彦は満殊千殊の守護をしたという勲功により豊後国久朱の郷を賜った。
三韓帰陣の折、藤太はそのまま久朱に居住、その時に韓人の農業技術者を連れてきて農業を広めて朝日長者となる。
その韓人から囲碁・将棋を学び久朱にも玉をつけて玖珠と変えるほどになる。
夏すずしい黒岳で囲碁をして楽しんでいたので里の人々が見て黒岳仙人と呼んでいた。朝日長者が上京の際、囲碁・将棋を聖徳太子に教え広めたとされる。現在の風穴の傍らに石の祠(碁神)は古文書にて朝日長者が祀ったとある。浄水寺由来記によると碁盤・将棋盤・碁石付黒水晶を寄付した。
昔一人の樵夫が深く黒岳に入り山道に迷い、二人の仙人が碁を楽しんでいるのに遭遇、道を尋ねると米のとぎ汁の流れに沿って(白水鉱泉)行くと無事に帰ることができた。村人は囲碁の神と崇めここに三神を祀る。
三柱の祭神は、八意思荒神(ヤゴゴロオモヒカネ・智ノ神)、経津主命(フツヌシ・戦ノ神)、吉備真備(キビノマキビ・勝負ノ神)である。
昭和62年8月に黒岳の風穴傍の石の祠(囲碁神社)を現在の場所に移設した。囲碁神社杯囲碁大会は、平成元年頃に第1回大会が阿蘇野の黒岳荘で開催され現在に至る。
Asono Naoyama, Oita Japan
仙人の郷(伝説と民話の里)
Asono Naoyama, Oita Japan
黒嶽民話(仙人の里)
『むかしむかし、豊後の国に白髪の仙人と友達の黒髭仙人がいました。二人は霞を食べて生きているので何もすることがありません。山に行ったり川に行ったりして遊んでいるうちに、白い石と黒い石を順番に並べていましたら面白くなり、年月の過ぎるのは早いもので、二人の周りは大きな樹木でいっぱいになりました。
今度は黒髭仙人の番になり、はたと困りました。黒い石を並ぶる所を間違ったら、今まで何百年と並べた石を全部取られてしまうので腕組みをし、どうしたものかどうしたものかと考えているうちに、見る見る大きくなって今日の黒嶽になってしまいました。
白髪仙人は黒髭仙人が良いところに置いたら、次は自分の番だからと思い、負けてなるものかと次の一手を考えているうちにとうとう白い知恵の泉が流れ出して、今でも白水として流れています。今でも考え続ける黒髭仙人のため息は、岩の間より冷たい風穴としてふきだしてります。
いつまでも石並べは続いて、仙人が大勢集まって来て見物しているうちに、みんな大きな山になってしまいました。村人は、この山々を久しく住む久住山、いくえにも重なりあった九重山と言い伝えています。』
また、黒嶽と白水にかかわる民話としては、『囲碁風土記』に述べられているものも残っている。
寶陀山浄水寺縁起
宝陀山浄水寺は、三十一代便達天皇十三年に、大伽藍ができあがったようです。天皇の御代が永く続き、君と臣が互いに敬愛し、国家が泰平で、万民が快く楽しく暮らせるよう、とくに大檀那である朝日長治の子孫九属の冥福と、現世において求める利益が得られるようにと祈願して建てられた寺で、本堂は七間四面で、そのほかの七堂は五間四面の堂塔三門などであります。ご本尊は三国伝来の金像観世音菩薩で、御丈は十一センチ程であります。現像仏は日羅上人が百済国より伝えた仏で、御丈は七十五センチ程あります。その脇士は天照皇大神と春日大明神です。当寺の宗旨は、真言大日宗であります。
当山宝物に関する記録
仏舎利六粒、白檀の不動明王は弘法大師の作で、寺号・山号の額は、聖徳太子の御宸筆です。般若十六善神画像は、狩野古法眼の筆によるものです。日羅上人の御法衣は七条・五条・二十五条のものがあります。十三仏画像は、弘法大師の筆なるものです。碁盤・将棋盤は黒嶽仙人の所持する品で、白色黒色の碁石はみな水晶なのであります。金泥紺紙普門品ならびに般若心経は弘法大師の筆によるものです。仏具・如意棒・香呂・水晶数珠は日羅上人の所持品です。錦の縵幕二流、長さが七間あります。これは朝日長者が寄付したものです。長者夫婦の絵像は狩野四郎次郎元信の筆なるものです。錦の戸張二流は大友能直が寄付されたものです大正年間の戦火により残らず焼失してしまいました。
朝日長者縁起(寶陀山浄水寺縁起)
昔、十四代仲哀天皇の御代に、近江国千の松原という所に、浅井藤太という者がありました。神功皇后が三韓征伐に赴かれた時に、武内の大臣の命により、この藤太もお供をしました。皇后は、三韓の者たちを難なく征伐されました。その帰路に際し、筑前箱崎、それから豊前の宇佐郡の住之江のほとりに停泊し、しばらく逗留されてから都にお戻りになられました。この時、藤太は千殊万珠の仁王を筑後国の高良山に奉納する役儀を仰せつかりました。藤太は、この勲功によって、豊後国の久朱郡を賜り、自領として居住いたしました。このゆかりによって、玉編を付して玖珠と書かれる事になったといいます。
藤太の末裔十七代目にあたる浅井長治という者は、農業に従事して、大巳貴命(おおあなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこのみこと)の両神を敬い、勤勉にふるまいました。同国の田野という所に、前千町、後千町あわせて二千余町の用地を耕し、その収穫物等を年貢として納めるなど、近国無双の有徳人として聞こえていました。
その頃、都は河内国の志紀という所でした。敏達天皇の御在位中、跡継ぎの君は皇太子になられました。その後、天下をお治めになるときに、用明天皇と称されました。十六歳の春、三月半ばに大内裏を出られました。何れの国に行かれたのか分からず、世継ぎの皇子が失踪されたということで、禁中で大騒動になりました。
そこで五畿七道の国司荘司らを召し出し、意見を交わしたけれども、まちまちで埒があきません。丁度その頃、豊後国の田野の浅井長治は、河内国の渋川に所用があって滞在しておりました。皇子の行方がわからず騒然となっている都の様子を、時の詔により聞きましたので、大変恐縮ではありますが、この身分の卑しい長治が言上します。
長治の話によれば、去る二月の中頃、豊後国の大野郡の三重郷に炭焼き五郎と申す有徳の長者が住んでおり、沢山の家来を召し抱えておりました。その中に十六、七歳ぐらいの貴族で、その名を山路(さんろ)といい、その風貌は尋常の人とは思えないほどでした。
草を刈る男たちにまぎれ、牛に横乗り、左の脇に羽鎌や立笙をさしていて、笛吹の名人でした。心賢き老人がこの笛の音色を聞いて、大層感銘を受けました。その音色から、「これは想婦恋の曲に違いありません。妻を想いてあこがれるという意味の曲です」と言いました。
幸いこの五郎に娘がいました。玉世姫といい、紅顔美麗でにおうような眉のきれいな容姿の様は、筆舌に尽くしがたい程でした。情欲が国連を傾けることの例は、(唐代の玄宗と楊貴妃にみられるように)異国本朝において枚挙に暇がありません。煩悩深きは決して実を結ばずとの聖賢の言葉は、もっともであります。恋慕辛苦に身をさらし、転がり落ちてはまた駆け登るといった波乱万丈の人生。恋慕の情を浴するならば当然の理ではあります。
宮廷では、急いで勅使を下され、その疑いを晴らし、事実の確認がなされました。そこで改めて久我右中弁光範卿を勅使として、早速豊後国に下され、三重の五郎の館にお入りになりました。彼が笛を吹く様子をごらんになるに、間違いなく皇子であります。早々とその旨を都にご報告し、数千人の迎えがすぐさまやってきて、急遽皇子は、都にお帰りあそばされました。禁中におけるご即位のお祝いがとりおこなわれ、万歳を唱える声がいつまでもたえないほどでありました。
この時、田野の浅井長治は宮廷へ呼び寄せられ、「高貴なる皇子が、無事都にもどられたのは、ひとえに汝(長治)の申し出によるお陰です。暗く沈みがちであった世から、一転して今、本朝は、あまねく太陽の光に満ち満ちてようやく明るさをとりもどしました。今回の褒美として、朝日の称号を与えるので、これより浅井を改め、朝日長治となのるように」との綸言が下されました。
彼は大層悦び、万歳千秋の思いで、本国にもどりました。これ以降、隣国の人々はこの朝日長者を敬ったということです。
農業に励みいっそう精進したため、倉に金銀宝物等がまたたくまに一杯となりました。この地あたりは、古より今に伝わる七不思議というものがあります。念仏水(行人泉の傍らに立ちて念仏を唱えれば、仏々と音して湧き出るという)殺生石(筌の石にあり、生き物これに止まればすなわち命を失うという)音無川(長者の威勢宏大にして、その一喝によって館の付近を流れる川が音をひそめたという)鳴子川(長者の一喝により音をひそめたる川が、屋敷を離れて漸く元通りの瀬音をたてるという)冬の青梅(長者の好物で、屋敷に絶えることがないという高山植物)四時の鶴(長者の泉水に鶴を放飼いしていましたが、長者絶跡の後もその場所を去らないという)各畝の田んぼの早稲や晩稲の稲色(?)等、今でも長者の時代より存在するのです。
長者の氏神は、熱田大明神と同一体であります。日本武尊(やまとたけるのみこと)が、近江国の千の松原にて、お隠れになり、白鳥となって西を目指して飛び去ってしまわれました。紀州の名草郡にしばらくたいざいし、その後尾張国の熱田に飛び立たれました。その地で宮殿の場所を決定され、崇め奉られました。そして専ら祭礼をとりおこないました。長治は千の松原の生まれであるので、常に白鳥大明神を自らの氏神とみなし尊崇いたしました。
その頃、聖徳太子の勝鬘経など一切の諸経論、大乗・小乗仏教のお経のご講談があった時節でしたので、長治は都に上り、聖徳太子の御説法を聴聞しました。法華経の八巻にある普門品三十三身をご尊体とし、一切の衆生を導かれました。
大慈大悲の観世音菩薩のご請願を聴聞し、至誠なる信心を発して、感謝の念を抱き、本国にもどり自らの居所の東側にある内山という所に大寺院を創建し、三国伝来の金像の観世音尊像を安置しました。そして、仏を祀る祠堂および仏に供える五町三反六畝の水田を寄付申し上げました。開山は、奈良の西大寺の道密僧正です。
その頃、百済国より真言宗の顕密三蔵に通じた高僧である日羅上人が日本に来られ、宮廷において昼夜を問わず、お釈迦様の御説をことごとく聖徳太子にお伝えなさいました。聖徳太子は大層感動されて、日羅上人を丁重にもてなし礼を尽くされました。
そうした中、長者は都に使いを出し、日羅上人を宝陀山浄水寺にお招きしました。上人は直ちに豊後田野に下向されました。観世音菩薩の安置されている霊場にふさわしく、寺の額は聖徳太子の御自筆で「宝陀山浄水寺」と染められ、直ちに仏塔伽藍に掛けられました。
長者は学問を怠らず、僧侶数百人を集めて、巻三月十八日より五十日間ご供養を始め、一万部のお経を奉納しました。その後に、日羅上人が都にお帰りになるとき、記念として、それぞれ日羅上人自ら彫られた長さ八十センチほどの聖観世音菩薩の脇士・天照皇大神・春日大明神を御箱に入れられました。人々は、普段は現像仏を拝んでいます。長者の御守本尊は十センチ程の金体聖観音です。これは日羅上人が百済国より持ち帰られたものです。この時より、寺院の繁栄は日に日に増していき、七堂伽藍もすべて完成しました。
この長者には最愛の娘が三人おり、一番上を「とよの姫」、次を「はぎの姫」、三人目を「ちどりのまえ」と名付けていました。三人とも、見目麗しくまさしく貞節でありました。ある時、長治の田畑が干ばつにあい、渇水となりました。それで、長治は川の上流にある、満々と水をためた男池に行き、雨乞いの願いをおこないました。
長治は、「我々の田地は渇水による干ばつで、五穀もできず稲もほとんど枯れようとしています。本当に困ったことになってしまいました。もしこの池に竜神がいるのなら、雨を降らし水を増やして田地を潤していただくことを心からお願いします。もしそうなれば、私の三人の娘のうち一人をあたえましょう」と約束して帰りました。
その時から、大雨による洪水があり、田畑はすみずみまで残らず潤いました。長者は、かりそめとはいいながら、竜神に約束する言葉をのこしたzので、姉の方を生贄にしようか、妹の方を与えようかと、心苦しくただ呆然として過ごしていました。
姉姫がいうには、「先日、雨乞いとして、男池で竜神に我々姉妹三人のうち一人を生贄として与えると、確かに約束したと承りました。」私は姉であるので、親のため、子孫のために命を惜しむことはありません。
妹姫はこれを聞いて「姉君は当家の跡継ぎとなりご孝養なさるべきです。我が身を生贄に与えていただきたい」と言い、姉と妹はそれぞれ義を重んじて死をかけた申し出をおこないました。
三番目の千鳥のまへの姫が、「私の名前は水に浮かぶ身でありますので、惜しむような命ではありません」といって、朝晩お経を読んで生贄になることに備えました。法華経の提婆品と観世音の尊像をお守り袋に入れて、急いで男池の端にたって、一心不乱に法華経(提婆品)を高らかに唱えました。
その時、突然白波が渦巻き上がって三十メートルぐらいの大蛇が池の中から浮かんでて、千鳥の姫に飛びかかってきました。まさに危ういときに、お守り袋の観世音が十方に光明を放って、ありがたいことに大蛇の口の中に飛んで入っていかれました。
大蛇はたくさんの涙を流して、その観世音菩薩を頭にいただいて、岩の上において水中に隠れました。逆巻く波が静かになった時、池の中の大蛇は、「今から私は罪ほろぼしに三熱の苦しみを受け、その後清浄の地に至ります」と大きな声で言いました。
見物していた人々は、観世音菩薩の大慈大悲の奇特を目の当たりに拝ませていただいたことは、本当にありがたいことですと、歓喜の涙を流しました。八歳の竜女が成仏したと大乗経に説いていたことはこれであったかと、おのおの一心至誠に観世音の御名をお唱えしました。これはひとえに、縁をもった衆生に成仏の方法を示されたことだとありがたく思われます。
その後、長者の姉娘が十六歳のころ、長者は筑後(今の福岡県)の国の星野内蔵という武士を、後継ぎの婿と決めました。婚礼の挙式も無事終わり、翌年の初春の始めに、一家親族皆集まって、余興に小弓で破魔草鹿を射させて見物しました。
それ以上のもてなしをするために、鏡餅を転がして矢で射させてみたところ、不思議なことにその鏡餅に羽が生え、羽先が百七十センチ近くある白鳥となって、空に飛び上がっていきました。人々は大層驚いて、眉をひそめて見ていたら、この鳥は空のあちこちを飛び回り、春霞にまぎれて東をさして飛んでいきました。そして、紀伊国(今の和歌山県)の名草郡に飛び降り、そこに居着いたということであります。
長者の一門はもちろん他の人々も、これは不可思議な妖怪だろうと考え、長者は直ちに氏神の白鳥大明神に参詣し、記念をして立願し、様々なお供え物・お酒をささげて、お祓いを行い、お神楽を舞い、神慮を鎮めました。
七日七夜祈り続けたところ、不思議なことに、空中より白鳥の羽がひとつゆらゆらとして、神社の壇の階段の前に落ちてきました。立ち寄って見るとその羽根の表に一首の歌が書いてあります。
「今日の日は西の山端にかかるとも明日は照らさむ天の八重雲」
これはまさしく白鳥大明神のお告げに違いありません。直ぐに神霊がお戻りになることは間違いないと、それぞれ喜びの表情となりました。それから、神社拝殿に金銀珠玉をちりばめて、造営をしました。誠に、神は人々からの敬いによってその威力を増し、人々はその神の徳によって運を開き、神がいるごとく神を祭るのであります。
これより後、寶陀山観世音菩薩の瑞験が新たに増したので、村民の男女はますます仰ぎ奉りました。三十三に化身したことは、筆舌に尽くしがたいことです。
『慈眼視衆生福聚海無量是故鷹頂禮。現世は安穏で、後世もよきところへいけることは間違いない』と、敬って申し上げます。
以上、縁起本書が虫食いで明瞭でないため、今書き改めて将来に残します。
維持元文戌年(一七三八年)中春吉旦
大乗菩薩戒沙門 法寐秀長法印、之を写す。
本書推古天皇二十四丙子(六一六年)これを書き記すと伝えられています。
阿蘇野神社の縁起
Ⅰ、祭 神 新 比 咩 命(阿蘇山八之宮の御神)
Ⅰ、鎮 座 西暦一一五七年九月二九日
由 来
後白河院(保元)の頃、肥州阿蘇山八之宮の御神(新比咩命)が居住を定める為矢を放ち井手下村に落ちたとされ、この地方の名を阿蘇井原と名付けた。
この土地は原野であったが上重村に榊近江という郷士が居て夢を見て田代村の村民と相談し今の故宮の地に小さな詞殿(ホコラ)を建て八所大明神として祀ったが神慮に叶わず、近江の夢に「祭りに供える土が田尾という所から一山くずれ抜け出してきて居座りその中に白幣を立ててある。」近江は二夜続けて夢を見「阿蘇山八之宮神(新比咩命この地ならば安住できる追々民家も繫栄するであろう)」とお告げがあった。そこでお告げがあった。そこでお告げに従って新たに宮殿を建立し、保元二年(西暦一一五七年)九月二九日肥後国阿蘇郡阿蘇十二之宮の内八之宮の新比咩命(阿蘇七之宮の娘)を勧請しこの里も鎮守の宮と崇めた。
榊近江はその一子四郎重次を境内に移り住まわせ名も榊丹宮と改め社司となった。それ以後この土地一帯を阿蘇野郷と総称することとなった。
社 歴
1. 享禄・天文(西暦一五二八~一五四四年)の頃は疾病の病(ハヤリヤマイ)が流行した時は神社の霊託があってこの一帯は流行を免れることができた。豊後の国府の太守大友義鑑公(大友宗麟の父)に申し上げて一宇宝殿(二間に三間)を再興し、宮田という所に神田を寄付された。
2. 文禄・慶長(西暦一五九二~一六一四年)の頃、上重村村長工藤氏・井手下村村長田北氏二人は氏子と相談して中野村に居る武田家の浪人望月弾正安春を招いて宮主とした。
3. 天保八年(西暦一八三七年)阿蘇野郷中村に疫病が流行したので、井手下村・原中山村の氏子申し合わせて御祈願した所、両村に一人も人手を煩わす者はなかった。
4. 明治四一年(西暦一九〇八年)八月一七日官幣中社阿蘇神社宮司男爵阿蘇惟孝氏より村社阿蘇野神社社掌喜泉光重・氏子総代山岡真森との間にて祭神新比咩命(七之宮の娘神)とし、御祭祇を毎年2,6,9,10の月にとりおこなうことで阿蘇野神社は古来當阿蘇神社の末社として證明書を出された。
天保九戌年三月
岡城
曹音寺十四世
正山大道書之
阿蘇野神楽座(深山流)
豊饒子供神楽座(深山流)
直入中臣神社
古事記記載
中臣神社神楽座(深山流)
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